3月12日(土)
電気が使える友達宅にて一晩を過ごした。
夜、寝ている間も何回も何回も余震が起き、そのたびに目を覚まし、すぐに逃げることができる体勢を整えた。
ぐっすりとはいかずとも、眠ることができた。mixiやツイッターで、「心配すぎて眠れなかった」「怖くて眠れなかった」などつぶやかれているのを見て、自分は精神的にはかなり落ち着いているのだろうと感じた。
朝8時ごろ。ツイッターで近くの避難所でご飯と水を配布しているという情報を得た。少しでも食糧と水を確保しておきたかったので避難所に向かうことにする。
とてもいい天気だった。朝日がまぶしい。外に出ると前日ほどの人通りはなく、日常に近いと感じた。
避難所についた。近所の中学校。体育館にみんな避難していて、そこでご飯と水を配布していた。みんな毛布にくるまっていたので、きっと寒い夜を過ごしたのだろうと思った。
ご飯と水を受け取るとき、「避難者名簿」みたいなものに名前を書いた。これで本格的に避難者になったように感じた。
電気のつく家に帰宅し、朝食をとる。もらってきたものではなく、みんなが各自持ってきたパン等を食べた。
朝食をとってから、少しだらだらした後、自分の家に帰った。ツイッターでほかの地域のライフラインが復旧している等の情報を得ることができたので、もしかしたら自分の家のライフラインも使えるのではないかと思ったからだ。
しかし、そんな期待は打ち砕かれた。水電気ガスが使えず。とりあえず部屋の整理をさらっとして、着替えてまた電気のつく家に行くことにした。行こうとしたらトトロから電話がかかってきた。どうやら大丈夫のようだった。話途中で切れてしまったが、きっと、大丈夫。その後すぐに親からも電話がかかってきた。電話が通じるようになったのかーと思い、ゆーかにかけまくるが全くかからなかった。
すき家やBig Boyなど、飲食店が活動を再開しているのを確認する。店の中は人だらけだ。バイトの面接先はまだしまっているようだった。
昼食をとる。少なめ。今後を考えておなかいっぱいは食べないように、胃袋を小さくするように。
午後。特にやることもなく、だらだらと過ごす。ジェンガをして負けたほうが「すべる話」をすることに。
変な感覚だった。
特にこれと言って問題がない。つらい状況にあるわけでもない。なのに「避難者」として扱われ、また、「避難者」として行動していた、非日常を繰り返していたのに、なのになんて平和な生活を送っているのだろうと。
日常のようで非日常を過ごす時間。まったりと過ぎていく。その間にもラジオから流れる宮城や岩手、福島の惨状。mixiやツイッターで飛び交う情報。まるで自分たちだけ違う世界で生きているかのような感覚だった。
18時以降から停電するという話を聞いていたので17時にはご飯を作って食べる。ここまでは本当にもう大丈夫だろ、と余裕だった。
しかし、福島で原発が大変なことになっているというニュースを聞き、その場が凍りつく。「福島近くね?」「いやでも10キロ以内の人が逃げればいいんじゃないの?」「放射能なめんな」「そんななの?だいじょうぶじゃね?」「いやいや、つくばなんて近いから危ない。オレ実家に帰る」
ずっとお気楽発言を繰り返していたのが僕である。そしてもう一人がいつも知ったかぶりをするやつである。知ったかぶりをするやつの話だったけど、あまりにもあつくやばいやばいといわれてしまい、周りの人たちもだんだんとやばいんじゃね?と不安を覚えるようになる。みんなすぐにつくばから逃げれるようにとATMに駆け込みお金を下ろす。
お金をおろし、電気がつく家に入る直前で、ゆーかから電話が来ていたことに気付き、かけなおす。放射能がどうのこうの大変らしいからもしかしたら西に逃亡するので泊めてください的な。これ、ただゆーかに会いたかっただけなのかもしれないとかいまさらだけど思ってしまうような言動だった←
帰ってきたら、放射能別に大丈夫だよーみたいなことになっていた。さすが知ったかぶり。それをさも当然のごとく伝えてくる。
20時には電気を消して寝る体制に入る。完全に山の上での生活スタイルと同じだ。そう、僕たちワンゲルはいざとなったら電気なんて必要ない。そういう世界での生き方を知っている。
眠りについて22時ごろ。余震で目を覚ます。結構ぐっすりと眠れた。
ツイッターで色々情報を得ようと開いたら、僕の好きな居酒屋が無料でご飯を出すというサービスを行っているというつぶやきを見つける。
友達と一緒に行き、鍋を揚げ物を無料で頂いてきた。「こんなことやって大丈夫なんですか…?」と聞くと、元気よく、「ぜんぜん大丈夫じゃねーよ!」と言われた。ここはつくば一の居酒屋だと思った。
そして再び帰宅。23時半ごろ。その後は眠れなかったのでブログを書いた。
ブログを書いていて、そのときの状況を思い出せば思い出すほど、自分なにやっているんだろうと思ってくる。地震直後の行動は本当に異常だった。
3月13日(日)
全てが日常に戻り始めた。
電気のつく家以外の家も電気がつき始め、ガスがでてくる。水の配給をやめるかも、避難所を閉鎖する、という情報が飛び始める。
僕も、いつまでも居候しているのもあれなので家に帰る。電気が使えるので基本的に困らなく生活できる。水は18時以降に一時的に流れるようにするということだった。
友達がうちに来てソラニンを見ていくという余裕を見せ、僕は部屋の片づけをし、執の仕事を多少行う。これはもはや日常といってもいいだろう。
そう、もうすでに僕は日常生活を行っている。
心配ごとは、7割の確率で大きい地震がもう一回来るという話。震源地は震度6強レベルの地震になるらしい。またあの揺れを経験するのだけは勘弁…。
しかし、「被災地に住んでいる僕」は不安がっていないのにかなりまだ心配でいる人たちがいるのを見ていると、自分はすごく楽観的なのか、もしくは被災地にいるからこそわかる安堵感なのか。とにかく世間とのギャップがあるような気がした。
もちろん、まだまだ宮城岩手辺りは大変だし福島の原発も人体に影響ない程度だと言え危ないし、千葉では鳥インフルエンザとかいいはじめるし実は全く報道されていない茨城北の人たちはライフライン全く使えないのに何の支援もない状態とか、すごく不安定な状態であるというのは間違いない。
だけど、だけど、
僕は大丈夫!もう避難生活はおわりなのです!非日常はもう終わって、また替わりようのない平凡な、なんとなく幸せな毎日がだらっと続いていくのです!
電気が使える友達宅にて一晩を過ごした。
夜、寝ている間も何回も何回も余震が起き、そのたびに目を覚まし、すぐに逃げることができる体勢を整えた。
ぐっすりとはいかずとも、眠ることができた。mixiやツイッターで、「心配すぎて眠れなかった」「怖くて眠れなかった」などつぶやかれているのを見て、自分は精神的にはかなり落ち着いているのだろうと感じた。
朝8時ごろ。ツイッターで近くの避難所でご飯と水を配布しているという情報を得た。少しでも食糧と水を確保しておきたかったので避難所に向かうことにする。
とてもいい天気だった。朝日がまぶしい。外に出ると前日ほどの人通りはなく、日常に近いと感じた。
避難所についた。近所の中学校。体育館にみんな避難していて、そこでご飯と水を配布していた。みんな毛布にくるまっていたので、きっと寒い夜を過ごしたのだろうと思った。
ご飯と水を受け取るとき、「避難者名簿」みたいなものに名前を書いた。これで本格的に避難者になったように感じた。
電気のつく家に帰宅し、朝食をとる。もらってきたものではなく、みんなが各自持ってきたパン等を食べた。
朝食をとってから、少しだらだらした後、自分の家に帰った。ツイッターでほかの地域のライフラインが復旧している等の情報を得ることができたので、もしかしたら自分の家のライフラインも使えるのではないかと思ったからだ。
しかし、そんな期待は打ち砕かれた。水電気ガスが使えず。とりあえず部屋の整理をさらっとして、着替えてまた電気のつく家に行くことにした。行こうとしたらトトロから電話がかかってきた。どうやら大丈夫のようだった。話途中で切れてしまったが、きっと、大丈夫。その後すぐに親からも電話がかかってきた。電話が通じるようになったのかーと思い、ゆーかにかけまくるが全くかからなかった。
すき家やBig Boyなど、飲食店が活動を再開しているのを確認する。店の中は人だらけだ。バイトの面接先はまだしまっているようだった。
昼食をとる。少なめ。今後を考えておなかいっぱいは食べないように、胃袋を小さくするように。
午後。特にやることもなく、だらだらと過ごす。ジェンガをして負けたほうが「すべる話」をすることに。
変な感覚だった。
特にこれと言って問題がない。つらい状況にあるわけでもない。なのに「避難者」として扱われ、また、「避難者」として行動していた、非日常を繰り返していたのに、なのになんて平和な生活を送っているのだろうと。
日常のようで非日常を過ごす時間。まったりと過ぎていく。その間にもラジオから流れる宮城や岩手、福島の惨状。mixiやツイッターで飛び交う情報。まるで自分たちだけ違う世界で生きているかのような感覚だった。
18時以降から停電するという話を聞いていたので17時にはご飯を作って食べる。ここまでは本当にもう大丈夫だろ、と余裕だった。
しかし、福島で原発が大変なことになっているというニュースを聞き、その場が凍りつく。「福島近くね?」「いやでも10キロ以内の人が逃げればいいんじゃないの?」「放射能なめんな」「そんななの?だいじょうぶじゃね?」「いやいや、つくばなんて近いから危ない。オレ実家に帰る」
ずっとお気楽発言を繰り返していたのが僕である。そしてもう一人がいつも知ったかぶりをするやつである。知ったかぶりをするやつの話だったけど、あまりにもあつくやばいやばいといわれてしまい、周りの人たちもだんだんとやばいんじゃね?と不安を覚えるようになる。みんなすぐにつくばから逃げれるようにとATMに駆け込みお金を下ろす。
お金をおろし、電気がつく家に入る直前で、ゆーかから電話が来ていたことに気付き、かけなおす。放射能がどうのこうの大変らしいからもしかしたら西に逃亡するので泊めてください的な。これ、ただゆーかに会いたかっただけなのかもしれないとかいまさらだけど思ってしまうような言動だった←
帰ってきたら、放射能別に大丈夫だよーみたいなことになっていた。さすが知ったかぶり。それをさも当然のごとく伝えてくる。
20時には電気を消して寝る体制に入る。完全に山の上での生活スタイルと同じだ。そう、僕たちワンゲルはいざとなったら電気なんて必要ない。そういう世界での生き方を知っている。
眠りについて22時ごろ。余震で目を覚ます。結構ぐっすりと眠れた。
ツイッターで色々情報を得ようと開いたら、僕の好きな居酒屋が無料でご飯を出すというサービスを行っているというつぶやきを見つける。
友達と一緒に行き、鍋を揚げ物を無料で頂いてきた。「こんなことやって大丈夫なんですか…?」と聞くと、元気よく、「ぜんぜん大丈夫じゃねーよ!」と言われた。ここはつくば一の居酒屋だと思った。
そして再び帰宅。23時半ごろ。その後は眠れなかったのでブログを書いた。
ブログを書いていて、そのときの状況を思い出せば思い出すほど、自分なにやっているんだろうと思ってくる。地震直後の行動は本当に異常だった。
3月13日(日)
全てが日常に戻り始めた。
電気のつく家以外の家も電気がつき始め、ガスがでてくる。水の配給をやめるかも、避難所を閉鎖する、という情報が飛び始める。
僕も、いつまでも居候しているのもあれなので家に帰る。電気が使えるので基本的に困らなく生活できる。水は18時以降に一時的に流れるようにするということだった。
友達がうちに来てソラニンを見ていくという余裕を見せ、僕は部屋の片づけをし、執の仕事を多少行う。これはもはや日常といってもいいだろう。
そう、もうすでに僕は日常生活を行っている。
心配ごとは、7割の確率で大きい地震がもう一回来るという話。震源地は震度6強レベルの地震になるらしい。またあの揺れを経験するのだけは勘弁…。
しかし、「被災地に住んでいる僕」は不安がっていないのにかなりまだ心配でいる人たちがいるのを見ていると、自分はすごく楽観的なのか、もしくは被災地にいるからこそわかる安堵感なのか。とにかく世間とのギャップがあるような気がした。
もちろん、まだまだ宮城岩手辺りは大変だし福島の原発も人体に影響ない程度だと言え危ないし、千葉では鳥インフルエンザとかいいはじめるし実は全く報道されていない茨城北の人たちはライフライン全く使えないのに何の支援もない状態とか、すごく不安定な状態であるというのは間違いない。
だけど、だけど、
僕は大丈夫!もう避難生活はおわりなのです!非日常はもう終わって、また替わりようのない平凡な、なんとなく幸せな毎日がだらっと続いていくのです!
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